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「規範適用的」とは、日本式なりアメリカ式なりの規範があって、それをすべての場合に適用してゆこうとするものである。
それに対して「発見的」とは、一応は自分なりの方向性や理論をもつにしても、個々の場合に応じてそれを変更したり、考え直したりしながら進んでゆく方法である。
 机の並べ方ひとつにしても、この授業では先生の工夫が感じられて、いいなと思った。
I先生は、場合によって机の配置は異なると言っている。
それがいいのだと思う。
日本人は 「流行」に敏感で、机の並べ方や、授業の運び方などにも一種の流行があり‐と言っても、それを支える理論めいたものが存在するのだが‐、どうしてもそれに従ってしまう傾向がある。
そのときに、たとえその理論や傾向を知っていたとしても、それを唯一の正しいものとしてしまわずに、一応適用しながらも「発見的」に対処するべきであると思う。
 この授業について、実は何人かの人だちと討論をしたのだが、そのなかで、二人の子を問いつめてゆくことの是非が話し合われた。
子どもの自立と責任について考えると、時に一人の子どもに対して厳しく追及することも必要である。
しかし、現場の教師としての立場からその時出席されていた、小学校のM先生が発言されたように、「下手をすると、親はそうはとってはくれない。
ぼくも苦い経験がありますね。
今までいい感じだったのが、一回の追及のまずさで関係が悪くなってしまう」ということも生じるであろう。
 これも日本文化の問題に関連する困難な課題である。
そして、この際も画一的な答はない。
M先生は「親はそうはとってはくれない」と言っているが、子どもはどうだったのだろうか。
私は、一人の子どもに対して問いつめていっても、教師が本当にそのことが必要だと感じている限り、子どもは相当に理解してくれると思っている。
 ただ、子どもの「自立と責任」ということを大義名分としてふりかざしているときは、他のことが見えなくなって、子どもの能力や子どもを取り巻く環境などを無視してしまうことになるのではなかろうか。
これまでの日本人のあり方から考えると、現在は、もう少し一人の子どもの自立や責任を大切にする授業のやり方に変えてゆく方がいいと思う。
しかし、そのような方向性をもちつつ、あくまで個々の場合に応じて「発見的」にするべきであろう。
「発見的」な態度を教師がもっていると、生徒の方もそれに答えてくれる。
授業のなかで、「鳩」という漢字の由来を皆で考えるところがあった。
それまでの授業の流れから、皆が「九」という字の内容にとらわれてしまって困っているとき、ひとりの子が「クックック」と鳴き声のまねをして、一同がハッと思いあたるところが、非常に印象的だった。
クラス全員が心の揺れるのを体験したような感じであった。
このような発見が、いわゆる優等生によってもたらされたのではないことに、われわれは注目すべきである。
 日本における授業では、下手をすると先生の意図が前面に出すぎ、その意図をいち早く察したり、「正解」を前もって知っている子が発言して、ほめられる。
そして、そのような子が実際に優等生と考えられているのだが、このようなタイプの優等生は、一面では創造性を打ち壊すことによってのみ成り立っているとも言える。
このような優等生や模範生が、思春期になって自己主張をしようとしてもうまくゆかず、ついには家庭内暴力を起こしてしまうような例を、われわれ臨床家は数多く体験している。
 この授業を見ていて感心したことは、いわゆる「できる子」と「できない子」の差が、見ているものにわからなかったことである。
つまり、生徒たちは各人がそれぞれ活躍していて、全体から落ちこぼれる子や、無関心になってゆく子が見当たらなかった。
 日本人の集団の特徴のひとつは、集団の成員に一番から順に序列をつけるのが好きなことである。
これは先にも述べたが、個性ということがわかりにくいので、どうしても順番によって個人の差を見出そうとする傾向が強いからである。
したがって、序列をつけるための評価の点数に、教師も生徒も親も強いこだわりを示す。
この傾向を破ることを日本人としては考えねばならないが、この授業では、鳩の「クックック」の例が示すように各人が自由に連想を語り、それが意味をもつことになるので、生徒の序列づけを不可能にしてしまう。
そんな点でも意義ある授業であった。
 教師の個性とは 生徒の個性を尊重するためには、教師が自分自身の個性を大切にしなくてはならない。
授業を見たあとでの討論のときも、教師のユーモアということが問題にされた。
日本人がユーモアのセンスに欠けることは、多くの国際会議においても指摘されるところである。
それに、日本人のなかでも教師は特にユーモアに欠ける。
日本人特有のマジメ好きが、教師において著しいのである。
 小学校の学級は、教師一人に対して、あとは子どもたちばかりの集団なので、下手をするとこれは教師を王にいただく王国のようになってしまう。
そして教師は、自分だけが絶対に正しい存在として、絶対的な権力をもった王として君臨することになる。
このようになると、何が正しいか、何をなすべきかなどが一義的にきまってしまい、全体が王の号令によって動くことになるので、ユーモアなど生まれるはずがない。
それは、ある点から言えば見事に秩序立っているが、きわめて弾力性に欠けた、もろい構造になってしまう。
 個性ということを考えはじめると、簡単に全体的なまとまりができるはずがない。
各人が自分の個性に基づいて発言する。
自分が正しいと思っても、他人の発言にも耳を傾けねばならない。
そこですぐに争うのではなく、ゆとりをもって彼我の考えを検討してゆく際に、ユーモアが必要になってくる。
ユーモアはゆとりから生まれるし、また、ユーモアによってゆとりが生じることもある。
 このように考えると、教師は、王様であったり道化であったりしなくてはならないようである。
教師のなかにはユーモアの必要性を強調し過ぎるあまり、道化になってしまう人があるが、それはやりすぎである。
時によって、王であったり道化であったりするところがなければならない。
王と道化と言っても、人によってどちらかが得意であって、どちらかは苦手ということもあろう。
各人はその点をよく意識していなくてはならない。
 あるいは、教師のゆとりある態度が、生徒が適当に道化になることを許すことになるだろう。
道化の笑いによって、思いがけない新しい展開が生じるのである。
 教師があまりにも王でありすぎると、生徒のなかに反動的に道化が出現してくることもある。
そのときに、教師はその道化を馬鹿げているとして裁断するのではなく、それの意味をよく考えることが必要である。
I先生の授業では全体として、道化があまり活躍しなかった。
先生の全体へのまとめ方が、怖い王のように厳しいものではないので、あまり道化を必要としなかったのだろうと思うが、少し上品にまとまりすぎるという批判が出てくるかもしれない。
 教師の個性を磨くことが何といっても必要であるが、そのためにこのようなビデオをみたりしての授業研究は欠かせないものである。
個性は一般的知識を獲得するだけでは生まれてこない。
人間から人間へと伝わってくるものが、個性の形成に役立ってくれる。

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